日々の出来事

「シン・ゴジラ」を観た

2016年8月4日

7月。仕事が重なり、急に忙しくなった。
たいした儲けにはならなかったが、仕事がないよりはずっとマシだった。
私は没頭するタイプの人間だ。今回の仕事はどちらも興味深く、私の集中力は途切れることがなかった。
月末になって仕事が落ち着くと、世間の動きから1ヶ月だけ取り残された自分がいた。
世の中の流れは速かった。ダッカやニースのテロ事件や、トルコのクーデター未遂など、日本人はすでに忘れてしまっている。世間の話題の中心は「ポケモンGO」へと移ってしまっていた。
そして8月になると、また暇な毎日が私を待っていた。

その日も、私は事務所で Amazon Prime Music を聴きながら、ネットを眺めて過ごしていた。
たまには映画でも観に行こうかと、MOVIX川口の上映スケジュールを見ていると、ネットで度々話題に上がる作品が上映されていた。
「シン・ゴジラ」
私は、ゴジラ映画をほとんど観たことがない。だから、ゴジラに特別な思い入れもない。
唯一、子供の頃「ゴジラVSメカゴジラ」を観た筈だったが、内容に関する記憶は全くなかった。
そもそも怪獣映画など、子供が夏休みに観るべきものではないか。などと言ってはみたものの、ネット上の批評や評論では、やたらと評判が良い。
「これは観るべきか」
私の中の好奇心が、再び動き始めた瞬間だった。

「ゴジラぁ?」
妻の反応は鈍かった。それどころか、あからさまに嫌な顔をされる始末だ。無理もない。いい歳をして怪獣映画を観に行く、ということに抵抗があるのは私も同じだったからだ。
「それじゃあ、独りで観てきてもいい?」
「いいよ」
返答は、実にあっさりしたものだった。こうして私は、独りで怪獣映画を観に行くことになったのだった。

平日の夜のMOVIX川口は、いつも空いている。その日も、これで商売になるのかと余計な心配をするぐらい空いていた。
私は売店でフレンチフライとコーラを買い、1番シアターに入った。やや後ろ、スクリーンに向かって左通路脇の席に陣取り、映画が始まるのを待った。
予想外だったは、客の年齢層が高かったことだ。危惧していたうるさい子供連れなど、どこにもいなかった。
数本の予告上映の後、照明が静かに落とされ、映画「シン・ゴジラ」が始まった。

突然東京湾に巨大生物が現れ、大田区に上陸。街を破壊しながら都心に向かう。
すぐ近くで大惨事が起きているのに、人々に緊張感はない。そして、いよいよ自分に脅威が迫ってきて初めて事の重大さに気づく。そして、気づいた時は生命の危機に直面している。
想定外の事態に、政府の対応も遅々として進まない中、ようやく自衛隊の防衛出動が決定される。といった内容で映画は進んでいく。
自衛隊との戦闘シーンは圧巻だ。覚醒したゴジラの皮膚は、まるでサイコフレームをむき出したように赤く光り、神のごとき力を発揮して、近代兵器をまったく寄せ付けない。

上映時間は2時間。腰や尻が痛くなる時間だ。しかし、腰は痛くなっても、この映画が私を飽きさせることはなかった。私は「たかが怪獣映画」と半ば馬鹿にしていた自分を恥じた。
この映画は、最近の日本映画によくあるくだらない呪縛から完全に解き放たれている。感動の押し付けもなければ、丁寧すぎる説明的なセリフもない。やたらと登場人物が多く、皆早口でしゃべる。

「ゴジラはなぜ都心を目指し進むのか」とか「架線切れでも電車は走るのか」とか、疑問に思う部分も多いが、そんなことはこの映画にとって、どうでもいいことなのかもしれない。
そう思わせるだけの映像的説得力が、この映画にはある。日本の特撮映画なのに、玩具っぽさは無い。

怪獣にはリアリティがない。だが現実、「災厄」にリアリティを感じている人は、どれだけいるだろうか。
「ゴジラ」が、日本が直面した災厄の象徴だとするならば、その災厄に本気で向き合う人々すべてが、この映画の主人公だろう。

映画の結末は、あの災厄を連想せずにはいられないものだった。
世の中の流れがどれだけ速くても、忘れてはいけないことがある。
今も私たちは、現実に災厄と共生しているのだということを。

そして私は、MOVIXの次回割引鑑賞クーポンを手に入れたのだった。
さて次は何を観ようか。