日々の出来事

最も危険な乗り物

2016年6月15日

それは我が家の脱衣所にあった。
「脱衣籠の台座」といった風情で、あたかもそこが元々の定位置であるかのごとく鎮座している。
「体脂肪計付き体重計」
それが奴の、本来の名称だった。

数年間ここが定位置だった

数年間ここが定位置だった

数年前のある日、仕事から帰ってきて脱衣所で着替えようとすると、体重計が変わっていることに気付いた。
妻に尋ねると、
「安かったから買っちゃった。体脂肪も計れて便利なんだよ」
と言い、頼みもしないのに私のデータまで設定し、さまざまな機能が付いていることを自慢げに説明してくれた。
それが今では、脱衣籠の台座となっていることに、私たちは互いに気付かぬふりをしていた。
「言わぬが花」
夫婦生活においては、余計なことは口にしないほうが差しさわりがない、ということも多々ある。

パナソニック 体重・体組成計 ビビッドピンク EW-FA13-VP

数年間の沈黙を破ったのは、私の方だった。使ってみたくなったのだ。週に二度のスポーツクラブ通いの成果を、数字で確認したくなったのだ。
「ウチにさぁ、体重計、あったよねぇ?」
「あったっけ?」
「脱衣籠の下にあるやつだよ」
「ああ、あれね…。あれはね、『危険な乗り物』なんだよ…」
「えっ?」
「乗ると、恐ろしいことが起こるんだよ。だから乗らないの」

あれが「乗り物」であるかどうかは疑問だが、「乗ると恐ろしいことが起こる」というのが何を指しているのかは、容易に想像がついた。しかし、私に限って言えば、そう恐ろしいことが起こるとは思えなかった。私は元々痩せ型であり、二十歳の頃との体重差はプラス1キロなのだ。その上週二回、簡単な筋トレとランニングマシンで1時間走る、というトレーニングを数年間続けている。私には自信があった。そして自信を裏付ける根拠もあった。舐めてもらっては困る。という心のつぶやきは伏せ、私自身が使いたい旨を妻に説明した。

妻に体重計の使い方を簡単にレクチャーしてもらい、早速体重計に乗った。
体重は60.2キロ。20数年間、変わりのない数値だ。身長は175センチだから、男性としては痩せ型に分類されるだろう。
乗ったままの状態で、数秒間待つ。体脂肪率や皮下脂肪率、基礎代謝といったさまざまなデータを計測するためだ。
測定が終わると液晶デジタル画面が点滅し、結果が表示された。

体脂肪率 17.2%
皮下脂肪率 15.6%
内臓脂肪レベル 4.5
基礎代謝 1354
BMI 19.0
筋肉レベル 4
骨レベル 5
年齢 47

標準範囲内とはいえ、思っていたよりも体脂肪率と体脂肪率が高いことに、私は驚きを隠せなかった。体脂肪率は15%ぐらい、と予想していたからだ。筋肉レベルも低い。そして皮下脂肪率…。
確かに、腹回りの肉付きは気になっていた。30代に履いていたスラックスやジーンズが、きつくなり履けなくなっていたからだ。これは筋肉が落ちた分、腹回りの皮下脂肪と内臓脂肪が増えて体重を維持していた、と考えると辻褄が合うのではないか。もはや週二回程度のトレーニングでは、筋肉量の減少を抑えることはできないのか。食生活や毎晩たらふく飲んでいる酒量の制限が必要なのか。そして、もしも運動をやめたら、体脂肪率、皮下脂肪率は雪崩を打つよう増加してゆくのか。
さまざまな疑念が私の脳裏に渦巻いていた。
「中高年になれば脂肪がつきやすくなる」それはわかっていた。だからスポーツクラブに通っていたのだが、もはや、その程度の運動ではバランスがとれないほど、私の基礎代謝は低下し、摂取カロリーは蓄積されていた、ということなのか。
あきらかにダメな体型になりつつある自分に恐怖し、妻の言葉を思い出していた。
「乗ると恐ろしいことが起こる『危険な乗り物』」

「あきらめないで」
それは、かつてテレビコマーシャルで宝塚出身の女優が言った言葉だ。
彼女の言う通り、始めなければ、何も変わらない。
私は目標値を「体脂肪率14%」に設定し、新たなる戦いを始めることにした。
ここで負けるわけにはいかない。戦いは始まったばかりなのだ。
あの「危険な乗り物」を、私はいつか乗りこなしてみせる。
希望を失った時、人は本当の意味で、老いるのだ。