日々の出来事
老神温泉 東明館へ行った
その日、金曜の仕事を早めに切り上げた私は、車の助手席に妻を乗せ関越自動車道を北上した。
群馬県に入ると、関越道は山間を貫くように伸び、山裾に広がる街を遠望しつつのドライブは快適だった。
沼田インターチェンジを降りて国道120号線を東へ30分も走れば老神温泉に到着する。
国道を右に折れ、谷沿いに降りてく。廃業した食堂やスナック、ホテルが建ち並ぶ。かつては賑わったであろう、寂れた温泉地、という風情が私のノスタルジーを掻立てた。小さな吊り橋を渡ると、左手にあるのが目的地「東明館」だ。
一泊とはいえ、夫婦で旅行に出かけるのは十数年ぶりだった。我が家では今年五月までの十年間、犬を飼っており、そのうちの五年間は介護が必要で、二人で同時に家を空けることはできなかったからだ。犬と共に生活する、というよりも、犬を中心とした生活だった。それは私たち夫婦にとって、とても幸せな時間でもあった。愛犬を失った心の穴を埋めるように、私たちは温泉旅行を計画したのだった。
宿は、埼玉を中心とした中華料理チェーン店「ぎょうざの満州」が経営する温泉宿「東明館」。一泊朝食付き一人6千円。料金は一年を通して変わらない。この金額なら、たとえ期待はずれの宿であっても文句を言う気にはならないだろう。万一の場合、翌日は「道の駅白沢 望郷の湯」に立ち寄る計画だ。
宿に着くと、まずエントランス横の受付カウンターで清算を済ませる。みたところ、館内は清潔に保たれているようだ。簡単な館内設備とサービスの説明を受け、部屋に向かう。
部屋は一階だった。一階だと思っていたエントランスと受付は実は二階で、エレベータで一階に降りてすぐのところに私たちの部屋があった。
部屋は洋式トイレ付きの和室。窓からの景色は深い緑と見下ろす渓谷で、山間の温泉に来た、という気持ちが高まる。
妻の「わりと綺麗な部屋じゃん」と言った言葉に、私も同意見だった。これはのんびり骨休めが出来そうである。などと言うほど、最近の私の仕事は忙しくなかったが、とりあえずそれは忘れることにしよう。
部屋の窓を開け、網戸にすると涼しい風が入ってくる。誤算だったのは、網戸の目の粗いところから小さな羽虫まで入ってくることだった。それに気づいた私たちは、慌てて窓を閉めた。
私たちは、部屋着として用意されている作務衣に着替え、早速温泉風呂に向かった。
程よい広さの脱衣所で、作務衣と下着を脱衣籠に放り込み、浴場に入る。
情緒あふれる源泉掛け流しの浴場は、内湯と露天があって、どちらもそれほど広くない。金曜日ということもあるのか、宿泊客はそれほど多くなく、ゆったり浸かることが出来そうだった。
洗い場で軽く体を流し、まずは内風呂。
足を目一杯伸ばし、浴槽のふちを枕に流れる湯の音に耳をすます。至福の時。
露天風呂には先客が一人。ここでもゆったりと足を伸ばして掛け流しの湯を楽しむ。
泉質は単純硫泉。肌への刺激の少ない、なめらかな湯だから、肌の弱い人でもゆっくり浸かることができるだろう。
夕食は「ぎょうざの満州」
温泉を堪能した私たちは、夕食をとるために一階へ向かった。そこにあるのは、埼玉県民にとってはおなじみ「ぎょうざの満州」である。
この宿では「ぎょうざの満州」以外の選択肢はない。たっぷりと温泉に浸かった後に味わう、餃子とビール。これがこの宿の楽しみ方なのである。
アツアツの餃子を、冷えたビールで胃袋に流し込む。旨い。二皿頼んだ餃子があっという間になくなる。追加で頼んだ二皿がちょうどいいタイミングで出てくる。ビールもどんどん進む。
最後まで餃子で攻めまくる、というのも良いが、試しに「かた焼きそば」を頼んでみた。これが、意外に美味しく、かつ、ビールに合うのである。
「旨いな」
「美味しいね」
そんなふうに語らいながら食べ、飲む。これを幸せと呼ばずに何と言おう。
ちなみに、餃子は一皿210円、二人で動けなくなるほど飲み食いしても5千円札でお釣りがくる。宿代と合わせても二人で2万円かからないのだった。
妻風呂三昧
満腹かつほろ酔いとなった私は、部屋でごろりと横になった。温泉宿では、夕食を済ませた後はごろごろするか、風呂に入るか、どちらかしかやることがなかった。
妻は、泉質が気に入ったらしく、また温泉に入りに行くという。
30分ほどして、妻が缶ビールを買って戻ってきた。この宿の販売機で買えるビールは「プレミアムモルツ」か「モルツ」しかない。「黒ラベル」派の私には不満であったが仕方ない。二人で一本ずつ缶ビールを空けると、妻はふたたび温泉に向かった。
私が二本目の缶ビールをゆっくりと飲み干す頃、妻が追加の缶ビールを買って戻ってくる。
今度は私が温泉に浸かる番だ、と告げ、ほろ酔い加減で浴場に向かう。夜の露天風呂は思ったよりも虫が多いので、内風呂でのんびり湯に浸かる。
私が部屋に戻ると、今度は妻が風呂に行くと言う。
「また行くの?」
「うん。ここの温泉、私の肌に合うみたい」
妻はこの夜、計5回温泉に浸かった。つるつるでなめらかになった肌に喜びながら、私たちは宿の床についた。
朝食が意外に旨い
朝7時。スマートフォンの目覚ましで私たちは目を覚ました。
朝食は8時15分。それまでに朝風呂に入る、という算段である。
朝湯。それも温泉の醍醐味だ。私たちはそれを存分に味わった。
朝風呂を堪能した私たちは、朝食をとるために昨晩夕食をとった2階の「ぎょうざの満州」に向かった。
席にはおかずのプレートが用意されていて、その他はセルフサービスである。
白いご飯、炊き込みご飯、海苔、温泉卵、味噌汁に納豆、サラダもある。
そして意外なことに、どれも旨いのである。
私は白いご飯、妻は炊き込みご飯を選んだが、どちらも旨い。普段行く「ぎょうざの満州」で出される白米とは別物だ。
そして、味噌汁が旨い。味噌汁にうるさい妻でさえ「これは美味しい」と言ったのだから、間違いないだろう。
朝食を終え、宿をチェックアウトした私たちは、帰り道の国道沿いにある「道の駅 白沢」に立ち寄った。
地元の農産物直売所は大賑わいで、私たちも数袋分の産直野菜を買い込んだ。しばらくは、野菜中心の食事になるだろう。
ここには日帰り温泉施設が併設されていて、もしも宿の温泉に満足できなければ、ここで温泉に浸かる計画だったが、それは杞憂となった。私も妻も「東明館」の湯で、十分満足したからだ。私たちは、新鮮な野菜が悪くならないうちに、家路につくことにした。
久々の夫婦旅行は、リーズナブルで満足感の高いものだったと思う。「至れり尽くせりの宿」を求めるむきにはお勧めしないが、質の良い源泉掛け流し湯と、餃子とビールを心ゆくまで堪能するには、もってこいの宿だった。
私たちは関越道を南へ戻る車内で「いい湯だったな」「また来ようね」などと、会話を弾ませたのだった。