日々の出来事
水風呂エクスタシー
スポーツクラブのランニングマシン。私はスマートフォンで音楽を聴きながら走る。
アルバムを通しで聴くのが昔から私のスタイルだ。
たとえばそれは、シェリル・クロウだったりエリック・クラプトンだったり、ドアーズだったりセックス・ピストルズだったりする。ドゥービー・ブラザーズや、ダイアー・ストレイツも悪くない。
どれも Amazon Prime Music でダウンロードできるのだからありがたい世の中になったものだ。
アルバムを聴き終える頃には、体じゅう汗が滴っていて、トレーニングウェアはべったりと肌に張り付いてくる。
私は「ランナーズハイ」などというものを体験したことはない。走るのは、ただ苦しいだけだった。その苦しさを紛らわすために、音楽を聴いているのだ。
ではなぜ、そんなに苦しいことを続けるのか。
それは「我慢した後の快感は倍増する」ということに気づいてしまったからだ。
そんな私にとって、苦しいだけのトレーニングは「前戯」と言って良いものだった。本当のお楽しみはこれからなのだ。
ロッカールームに戻ると、体に張り付いたトレーニングウェアを剥ぎ取るように脱ぎ、浴場に向かう。
このスポーツクラブの浴場には、たっぷりと湯を張った白湯とミルキーバス、二人分の寝湯、サウナルームと水風呂、とちょっとしたスーパー銭湯並みの設備が整っていた。
まずは、ぬる目の立ちシャワーで丁寧に汗を洗い流す。まとわりつく汗を洗い流す爽快感は、エクスタシーへの序章でしかない。
湯船に体を沈めたい欲望を強引に押さえ込み、私はサウナルームへ向かう。
トレーニングで熱を持った筋肉を、さらに高温サウナで温める。その行為は、冷静に考えれば体にとってけっして良い事とは思えない。投球を終えた野球のピッチャーが、ベンチで肩をアイシングしている姿をみれば、運動後の筋肉は冷やしたほうが良い、と容易に想像がついたからだ。
それでも私は、サウナ室の壁に掛かった12分計を睨みながら、ただじっと耐えた。やがて全身の毛穴から、ふたたび汗が噴き出してくる。秒針の進みが、やけに遅く感じる。額の汗をタオルで拭い、萎える気持ちを奮い立たせるように背筋を伸ばす。それは、己の中の「力石徹」との戦いと言ってもよかった。「憎いあんちくしょうめ」私は心の中で、そうつぶやいていた。
12分計が一回りするや否やサウナルームから出た私が向かうのは、水風呂だ。
ついにこの時が、来た。
手桶で水をすくい、二度三度と水を浴びた後、水の中に体をゆっくりと沈める。
刹那、全身に快感がほとばしり、駆け巡るエクスタシー。いまこの瞬間、私の前頭葉からは、エンドルフィンが多量に分泌されているに違いなかった。
一連のすべての行為は、この瞬間のためにある。トレーニングとサウナが「前戯」なら、さしずめ水風呂は「本番」ということになろうか。
「すぐ手に入る欲望など、本当は何も与えてくれはしないのだ」
そんなことを、私は水風呂に教わったのだった。
私の快楽タイムは、ここで終わらない。
水風呂後のじわじわとくる多幸感に包まれつつ洗い場に向かう。
洗い場は低い壁で仕切られていて、隣の人を気にすることなく、思う存分からだを洗うことができる。
体洗いに使うのは、豪快に泡立てて、ゴシゴシ洗えるナイロン製のタオルだ。
こんなものでゴシゴシと体を洗うのは肌に良くない、という輩もいる。しかし、私にとってそんなことはどうでも良いことだった。
気持ち良いのである。
いや、「痛気持ちいい」と言った方が正しいかもしれない。くれぐれも言っておくが、私は変態ではない。
こうして、ふたたび訪れるエクスタシーを存分に味わいながら体を洗い終えた私は、ゆっくりと湯に浸かり、幸せを噛み締める。
乾いた喉が、いい塩梅になってきた。家ではきっと、妻が美味い飯と、よく冷えたビールを用意して待っているはずだ。
スポーツクラブの後のビールは、この世のものとは思えないほど、美味しいのだ。
我慢した後の快楽は倍増するのだから。